昭和天皇と太平洋戦争
昭和天皇の太平洋戦争終結の決意
東京大空襲の戦渦を視察し、関東大震災につづく帝都の破壊に直面した昭和天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐しています。
8月9日にポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになりました。 昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日、玉音放送をして終戦となりました。
後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べておられます。
昭和天皇と太平洋戦争の関係だけでなく、なぜ太平洋戦争は起きてしまったのか、各戦地での出来事、作戦内容はどうだったのか、太平洋戦争の開戦から終戦までの3年8カ月の記録を集大成したDVDが発表されました。
全国民を巻き込んだ太平洋戦争の実態を現代を生きるすべての人に伝えたい内容です。
過去を学び、平和の尊さを実感してほしいのです!!
太平洋戦争末期と昭和天皇
太平洋戦争末期のころは文字通り世界中で日本軍が戦火をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していました。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際に幾つか指示等もしていました。
戦争当時、皇室は大銀行や国策会社の大株主であり、三井財閥の三井家や三菱財閥の岩崎家と同様に「財閥家族」であり、その財閥本社としての機能は宮内省が有していました。 天皇家と、職員数千人を抱える宮内省の複合体である〈天皇家=宮内省〉こそが、天皇財閥という大企業の中核であったのです。戦時経済は皇室財政の拡大に貢献していると言われています。
1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めました。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の召集を勧めていたのです。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われ、表向きは重臣が天機を奉伺するという名目でした。
そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿の上奏があります。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案しています。
昭和天皇は近衛の言うとおりの人事が出来ないことを指摘しており、近衛の策は実行されませんでした。近衛が共産主義革命を恐れた背景としては、皇室家(宮内省)が日本最大の富豪であり資本家であった事実があったからです。
(参考文献)吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』
天皇を崇拝し尊敬申し上げている私にとって、この記事はいささか信じがたい部分もありますが、歴史上正しいか否かはわかりませんが、皇室をこう捉えている方もいらっしゃるということを知っておくべきと思い当サイトの記事として載せました。記事をお読みになった方々がそれぞれ考えるきっかけになればと思います。避けられない太平洋戦争の御前会議で。
太平洋戦争は、第二次世界大戦の局面の一つで、1941年12月8日の大本営発表日から1945年8月15日の玉音放送を経て、9月2日に降伏調印の期間における、日本と、連合国(主にアメリカ・イギリス・オランダなど)との戦争で、昭和天皇は、大日本帝国陸海軍の最高指揮官にあたります。
1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は避けられないものとして決定されました。天皇陛下は御前会議では発言しないことが通例となっていましたが、昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の
「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)
という短歌を詠み上げました。このことから推察できるように昭和天皇ご自身は開戦には消極的であったと言われています。