平川門(ひらかわもん)

mon054.JPG 皇居平川門mon052.JPG  皇居平川橋 正面mon056.JPG  皇居平川橋 側面

平川門は江戸城の裏門、大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門でもあり 、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったようです。

太田道灌(どうかん)(1432~1486)のころからここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあり、門の名前の由来になったそうです。

mon049.JPG  皇居平川門前 太田道灌碑mon050.JPG  皇居平川門前 太田道灌公の碑mon051.JPG  皇居平川門前 太田道灌公の碑

今年(2007年)は太田道灌公が長禄元年(1457年)に「江戸城」を築城してから、ちょうど550年に当たります。太田道灌公没後450年を記念して「追幕の碑」は建てられました。(今から525年前になります)

高麗門(第一門)、渡櫓門(第二門)、木橋(城門形式一式)が、昔のまま残っているのはこの門 だけだそうです。

この門は別名、不浄門とも言われ、罪人や遺体はここから出されたそうです。当然殿中で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は重罪人とされ、城内の座敷牢に留め置かれた後、一関藩主田村邸へお預けとなるために城外へ出されるときに、この平川門から出されました。

【太田道灌公について】

太田道灌(1432~1482)は室町中期の武将で歌人、名は資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。1457年、現在の千代田区の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、30数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された。江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔を今に伝えている。

「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」

 

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