西部ライオンズ時代の松坂大輔投手(2001年~2003年)
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2001年
15勝を挙げ、最多勝を獲得しました。これは高卒の新人年から3年連続の獲得となり、史上初となります。
沢村賞を受賞しましたが、15敗と負け数も多かったため、選考委員からは反対意見も出ていました。結局、両リーグで唯一の15勝投手であることや、240回1/3という圧倒的な投球回数などが高く評価されての選出となりましたが、2年連続での「該当者なし」という事態は避けたいという思いも選考委員にはあったと思われます。
当時の藤田元司委員長は、「松坂の150キロを越える豪速球は沢村さんをほうふつさせる。将来の松坂に対する期待を含めて選んだ」とコメントしています。
2002年
開幕6連勝という順調なスタートを切りましたが、5月13日の近鉄戦で右ひじを痛め、何度か復帰するものの、本来の投球は戻らずに長期離脱。日本シリーズでも巨人打線に打ち込まれて2敗するという悔しいシーズンとなりました。
2003年
前年の怪我から奮起し、自己最多タイ(当時)の16勝を挙げ、自身初めて最優秀防御率のタイトルも獲得しました。
アテネ五輪の野球アジア予選では、11月6日の台湾戦に先発し、7回無失点の好投で勝利を収め、五輪出場の条件である2位以内をほぼ決定づけました。大会の最優秀投手にも選ばれました。
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